武蔵忍士団の設立まで
武蔵一族は、徳川家康と江戸幕府に仕えた譜代の伊賀忍士(しのびさむらい)の一族。先祖は徳川家康の伊賀越えに永持徳蔵とともに随従した柴田周防の一族郎党。幕府開設後は広敷伊賀者として大奥の警護や隠密活動に従事したが、幕府の学問吟味導入後、19世紀には外交の専門職に抜擢された。明治維新においては明治政府からの招聘を辞退し、以後、独自の活動を行っている。
1590年に江戸(武蔵)に入府した幕臣の柴田とその親戚、一族郎党を中心に発展した忍士一族は2006年に武蔵一族として門戸を開いた。集った人々が忍士精神を「忍士道」として体系化し、2019年にNPO法人「武蔵忍士団」を設立し、忍びの文化普及活動を行っている。
忍士の定義
1676年の万川集海(藤林左武次保武著)第一章に、忍には忍士(しのびさむらい)と忍びの者の2種類があったことが記載されている。忍士(しのびさむらい)は、忍びの技術などを創意工夫し、その郎党・下僕などを忍びの者として訓練し、活動させた郷士とされている。
武蔵忍士団では、戦国時代に忍びの活動に従事していた武士を「しのびさむらい」、1600年以降、幕府に仕え諜報活動を行った者を「にんし」として区別を図っている。
忍士団の忍術定義
武蔵忍士団は、忍術は武術ではなく、隠密裏の情報収集を可能にする戦略上の技術の集大成であるとしている。忍の使命は情報収集にあり、武芸者になることでない。そのため伝承されている技能や知識は武芸のみならず、忍具製法、技芸、馬上武芸、薬草、火薬、言語教育など多岐に渡る。水泳法は昭和に失伝。団員はそれぞれの得意分野で芸を磨き修行し、分業体制を支える。各々の専門知識に応じて、武芸忍、技芸忍、特務忍、連絡忍などと呼称される。
忍士の歴史
本能寺の変事件直後の1582年6月4日、柴田周防と永持徳蔵が、服部半蔵の要請により他の伊賀・甲賀忍士らと共に徳川家康の伊賀越えに随従した。以後、徳川に仕え、1582年に徳川家の家臣となった。
1590年、徳川家康に従い江戸(武蔵)に移り、1868年まで徳川幕府とともに歩み永持・柴田両家は武蔵で新たに忍士としての地位を確立した。 1868年、明治政府からの要請を辞退し、柴田家を中心とする忍びの伝統を維持する集団となった。忍士は、江戸徳川幕府の諜報活動に携わった目付と隠密、そして外交使節として対外的に情報収集を行った幕臣たちを指している。
忍士の戦国から江戸時代
1582年、柴田周防と永持徳蔵、徳川家康の伊賀越えに随従、同年、徳川家の家臣となる。(譜代伊賀者/鳴海伊賀と呼ばれていた。)
1584年、永持徳蔵、松ヶ島城の戦いで討死。(徳川の同盟者である織田の援軍として服部半蔵の指揮下、参戦。)
1615年、柴田周防、大阪夏の陣で討死。(大阪城内外で諜報活動に従事。)
1618年、永持三郎左衛門、永持喜内 広敷御番、内藤修理配下となる。
1630年、柴田弥五右衛門、御台所小間遣いとなる。
1681年、柴田崎右衛門、表御台所人となる。
1704年、永持重大夫、瀧川長門守組
1714年、柴田崎右衛門、小間遣組頭となる。
1717年、紀伊徳川の広敷伊賀者が婚姻により柴田・永持の一族に加わるようになった。
1739年、柴田崎右衛門、表御台所見習いとなる。
1740年、柴田崎右衛門、表御台所人となる。
1748年、柴田崎右衛門、9代将軍家重の側室至心院の御膳所御台所人となる。
1752年、柴田崎右衛門、表表御台所書役となる。
1780年、柴田甚四郎、御台所頭支配無役。
1794年、幕府は学門吟味に基づく実力主義制度を導入し、能力による登用を開始。下級武士である忍士も勉学に励んだ。
1802年、柴田甚四郎が幕府の学問所勤務となる。林大学頭から服部伊賀守組より石川左近將監組への移籍を告げられる。
1828年、柴田順蔵、学問吟味の後、長谷井五右衛門組に所属となり、目付となる。
1832年、柴田順蔵、西の丸修復御用役となる。
忍士の幕末
柴田貞太郎剛中(しばた さだたろう たけなか)1823–1877
文久の遣欧使節の組頭として開港延期の交渉、各国での視察や情報収集の要として役割を果たした。また、慶応の遣欧使節としてフランスに駐在。英仏の政府などとの交渉や、その他の情報収集を行った。国内で外国人の関する全ての出来事に柴田が関わったと言われている。
1833年、小普請となる。1841年、学問所で2度表彰され、1842年、目付となる。
1843年、武術と「学門吟味」で幕府から褒美を受ける。
1858年、外国奉行組頭となり横浜港の開港交渉など欧米各国と交渉に従事。
1862年、遣欧使節の組頭として各国との交渉に直接参加した。当時の西欧の新聞記者達は柴田を「影」と呼んでいる。
1863年、 外国奉行となる。
1864年1月、 将軍上洛にともない柴田は留守居役となる。
1864年4月、 函館に出張、日本の港の鎖に関してロシア総領事のゴスケビッチと鎖港などの交渉にあたる。柴田の日載で徳川幕府が条約締結国に対して、協調外交を行おうとしていたことが窺える。
1865年、慶応の遣欧使節の長としてパリに1年間駐在。柴田は、英仏政府に幕府への軍事顧問を送るよう要請。英国は辞退したが、フランスが了承。これにより、柴田はフランス軍事使節団の招聘を行った。また、この間、柴田は情報収集を行いながら、ロスチャイルド家やヨーロッパ企業と交渉している。部下に国際法を学ばせた。帰国後、兵庫港(現神戸港)の開港業務を担当し、埠頭、外国人居留地、徳川道を建設。
1868年、外国の代表団を前にして、兵庫港開港を宣言。
永持享次郎穀明(ながもち こうじろう よしあき)1826–1864
1844年、「学門吟味」に合格。永持の専門分野は言語と海軍防衛。
1849年2月16日、目付となる。
1853年、ロシア船「ディアナ」下田港入津のため伊豆相模を偵察。
1854年、オランダから寄贈された「観光丸」の船長候補の一人として勝海舟らと長崎に転勤。
1855年、長崎奉行所の吟味役となる。奉行所内に英語学校を設立。
1855年10月、ロシアの提督プチャーチンを訪問し、追加の交渉を行い日露通商条約の条項を締結に携わる。 長崎製鉄所の建設が始まり庶務会計を主宰。
1857年、長崎奉行支配吟味役となる。長崎出島を訪問し、オランダ商館長クルチウスから広東戦争の詳細を聞き、長崎奉行に報告。
1860年4月、ロシア艦が対馬国尾崎浦に入ったため偵察。
1860年5月長崎奉行支配組頭として、対馬占領を目ろむロシアのポサドニック艦長ビリレフと交渉し退去させる。
1863年、御徒頭過人兼外国御用出役頭取締となる。
1864年、別手組200人及び附属役等合計212人を率いて上洛、禁裏警守。
永持 五郎次 明徳(ながもち ごろうじ あきのり)1845-1903
若くしてオランダ語を学ぶ。五稜郭で戦ったフランス人ジュール・ブリュネ大尉(映画『ラスト・サムライ』のモデル)の義父。
1862年、叔父の柴田貞太郎剛中に随行し文久遣欧使節団の一員として渡欧。帰国後、フランス語教師を経て日本陸軍中佐となる。
1891年、現在の東京農業大学の前身である徳川育英会育英学学校の初代学長に就任。
柴田 専一 龍之丞(しばた せんいち たつのじょう)1888-1956
1917年、柴田専一龍之丞、キリスト教に改宗し救世軍の士官となる。一族忍士団を改革、その死後50年間は世間に対して門戸を閉じることを命じた。
柴田 仁一 鉄聞斎 1928–2016
1951年、柴田仁一鉄聞斎は忍士団を隠密一族として再編。その江戸捕物工房で一族に伝承されている武芸、工芸、鉱山業での技術、その他の忍び術を指導。
柴田 清美 朱雀
2006年、柴田専一の50回忌後、東京都、北区田端に時代アカデミーを設立。家芸を武蔵柴田流と呼称する。
2014年、武蔵一族合同会社設立。
2017年、港区芝公園にの機会振興会館に移転。一族の頭目(米田和近)とともに忍士一族が江戸期から伝承してきた思想を基本的な原則及び指針として体系化する。
2019年、根本理念を「忍士道」と命名。概要を国際忍者学会で発表。